創業者/生みの親
当社の創業は1917(大正6)年。
三重県鳥羽の造船所の一角に新設された電機工場でスタートしました。
この決断を下し、電機事業をスタートしたのが当社創業者で生みの親の辻󠄀湊です。
鳥羽造船所で電機事業をはじめる
1916(大正5)年の秋、当時、三井・三菱をしのぐ日本一の貿易商社として隆盛を誇っていた鈴木商店から鳥羽造船所に、一人の技師が派遣されてきました。この技師が辻󠄀湊でした。
辻󠄀は鈴木商店の大番頭・金子直吉の指令で播磨造船所(現 IHI・ジャパンマリンユナイテッド)を調査していたのです。そして、良い設備・機械が揃っていると報告しました。この報告をもとに1916(大正5)年12月、金子は鈴木商店による鳥羽造船所の買収を決定、鳥羽造船所の実質的トップとして辻󠄀を送り込みました。
辻󠄀はその半年足らず後の1917(大正6)年5月1日、造船所内に電気係を組織、約100坪の小さな電機工場を新設しました。これがシンフォニアテクノロジーの創業です。
当時は第一次世界大戦の真っ最中で、造船用の電気部品や造船所の電機設備の入手は困難を極めていました。電機設備を内製化することで、こうした問題を解決しようとしたのです。
辻󠄀は呉海軍工廠(広島県呉市)から電気技術の専門家である海軍機関少佐・大野弘を招聘するなど、数名の技術者を集めて電機工場を立ち上げました。その半年後には大野の紹介で、辻󠄀と同じく当社の創業者で育ての親である小田嶋修三を、京都の奥村電機商会からスカウトしています。
電機工場では、当初は船のウインチ用の電動機や鳥羽造船所内のプレス機用の電動機などの設備を作りましたが、すぐに鈴木商店系列の造船所や工場の電機設備も引き受けるようになり、さらには、電機品の外販まで行うようになりました。辻󠄀には電機という新しい分野を手掛けたいという強い意志があり、事業開拓にまい進したのです。
佐世保で軍艦を毎日眺め船の虜に
1876(明治9)年11月、辻󠄀は佐賀県の小城(おぎ)に生まれた後、長崎県佐世保の軍港地区に転居。小学生だった辻󠄀は軍港を行き交う艦船を毎日見ながら、すっかり船好きになっていました。
旧制中学を卒業すると海軍兵学校を目指すものの近視のため、やむを得ず断念。旧制第二高等学校を経て1904(明治37)年には京都帝国大学機械工学科を卒業、東京石川島造船所(現 IHI・ジャパンマリンユナイテッド)に入社しました。
1908(明治41)年、辻󠄀は請われて鈴木商店に移り、立ち上がったばかりの神戸製鋼所の技師長となりました。その頃、鈴木商店の大番頭・金子直吉は台湾での製糖事業を積極的に進めようとしていました。辻󠄀は金子の命を受けて台湾に渡り、製糖工場を設計、台湾で最新鋭の製糖工場を築き上げるなど着々と実績を上げていきました。
第一次世界大戦が始まった1916(大正5)年11月、開店休業状態だった鳥羽造船所を買い取ってくれないかという話が鈴木商店に持ち込まれました。そのため、前述したように、辻󠄀は鳥羽造船所を視察。鈴木商店が買収すると鳥羽造船所の実質的経営者に就任、電機事業をスタートさせたのです。
電気技術のパイオニアだった辻󠄀の妻の一族
電機は当時の最先端技術分野です。辻󠄀はなぜ、鳥羽造船所の買収から半年も経たないうちに電機工場竣工まで一気に突き進んだのでしょうか。それには辻󠄀の妻の一族が関係していました。辻󠄀の妻の父である中野宗宏は、辻󠄀と同郷の小城出身で、わが国最初期の電気・通信系の技術官僚でした。英語が堪能で、英国留学後の1881(明治14)年には工部省(通商産業省・運輸省などの前身)権少技長を務めましたが、若くして世を去っています。
また、宗宏の弟で妻の伯父である中野初子(はつね)は、工部大学校(現・東京大学工学部)在学中に、最初のアーク灯の実験に立ち会った5人の日本人のうちの1人でした。実験が行われた3月25日は日本ではじめて電灯がともった日として、電気記念日に制定されています。初子は東京帝国大学電気工学科教授となり後進の育成に尽力、わが国初期の電気工学の最大の功労者の一人です。また、1896(明治29)年には、東京石川島造船所の電気工場顧問として、国産初の交流発電機を設計しています。この発電機は翌年、東京電燈(現・東京電力)の浅草中央発電所で稼働を始めました。
辻󠄀の妻の一族は、わが国の電気・電信技術のパイオニアだったのです。辻󠄀の身内は電気という最先端技術にかかわる人々だったのです。それでなくても、新技術をもとに事業を興すという起業センスに人一倍優れていた辻󠄀が、電機事業というフロンティアに乗り出したのは、当然のことだったといえるでしょう。
数々の新事業を立ち上げる
辻󠄀は神戸製鋼所取締役として鳥羽造船所および鳥羽電機工場の経営にあたった以外にも、鈴木商店の技術系幹部として帝国汽船取締役、東京無線専務取締役、台湾・宜蘭殖産の社長を務めています。さらに、化学肥料などの原料になるアンモニアを人工的に作るため、フランスのジョルジュ・クロードが開発したアンモニア合成技術を導入、1922(大正11)年にクロード式窒素工業会社(現・下関三井化学)を設立しました。これは日本の化学工業の幕開けといえるものです。また、1926(大正15)年の日本放送協会の設立にも深く関わっています。
1927(昭和2)年の金融恐慌により鈴木商店は破たん。辻󠄀は神戸製鋼所取締役を退任、鳥羽造船所・鳥羽電機工場の経営から手を引きました。しかし、辻󠄀の新事業開拓への意欲は一向に衰えを見せませんでした。
満州・撫順炭鉱の炭層を被う邪魔者として捨てられていた油母頁岩から頁岩油(シェールオイル)を抽出する事業を南満州鉄道が中心になって立ち上げましたが、辻󠄀はこれに技術面で参画。また、1939(昭和14)年には満州に石炭液化研究所を創設しています。
さらに、石炭液化に適した石炭が北海道・羽幌炭砿から産出することに着目、輸送面がネックとなってほとんど開発が進んでいなかった羽幌炭砿開発のために奔走し、羽幌炭砿鉄道の設立発起人となっています。戦後になって、羽幌炭砿は機械化の進んだ高効率の炭鉱として大いに発展しました。
1958(昭和33)年に亡くなるまで、辻󠄀は数々の新事業開発を手掛けましたが、当社への想いは一生続いていました。戦後、当社がミシン用モータを手掛けたときは、小田嶋の要請に応えて販売先をいろいろ紹介するなどしています。
また、辻󠄀の人柄を敬愛する人々が「湊会」を組織、1951(昭和26)年の名簿には小田嶋修三や江戸川乱歩ら鳥羽工場の関係者を中心に百数十人の名前が記載されており、当社との交流が続いていたことが分かります。辻󠄀自身も当社の戦後の発展を我が事のように喜んでいました。
創業者・辻󠄀の新分野・新技術に挑み続けるその精神は、今日まで当社のDNAとなって継承され続けています。