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- 江戸川乱歩とシンフォニア(その1)
探偵小説で有名な江戸川乱歩(本名 平井太郎、没年70歳)は、シンフォニアテクノロジーの前身である鳥羽造船所の社員でした。
庶務課に所属し、働いていたのは作家としてデビューをする4年前の1年4ヶ月でしたが、この期間が江戸川乱歩の人間関係や作品に大きな影響を与えたと言っても過言ではないでしょう。
鳥羽造船所で過ごした日々
1917年(大正6年)、一人の若者が鳥羽造船所電機部に就職します。若者の名は平井太郎。彼こそ、のちの江戸川乱歩その人だったのです。庶務課に配属された乱歩は、当時の技師長桝本卯平に気に入られ、社内誌の編集や鳥羽おとぎ倶楽部の設立など、造船所と地元の人との交流をすすめていました。こうした交流を通して乱歩は坂手島の小学校の先生だった村山隆子と知りあい、のちに結婚することになります。
乱歩はよく無断欠勤しては、寮の自室の押入れにこもることがありました。この時の体験が「屋根裏の散歩者」という作品のヒントとなりました。また、代表作「パノラマ島綺譚(奇談)」の舞台モデルとなったのが、乱歩が毎日のように庶務課の窓から眺めていた島と言われています。
・今回の掲載につきましては、江戸川乱歩のお孫さんである平井憲太郎氏にご協力いただいております。
※出典:江戸川乱歩推理文庫特別補巻「貼雑年譜」
鳥羽造船所社員時代を紹介(大正6年11月~大正8年1月、24~25才)
(自伝より)「大正6年11月11日、父の知人の紹介で鳥羽造船所電機部(当社創業の部署)に入社赴任した。庶務係月給20円、食事は会社持ちであった。風光明媚、暖かい南国、好景気来襲間際、常にのんびり遊んでいたような勤めであった。
まだ独身の寮ができていなかったので、社員クラブの2階で泊まっていた。それから城山(旧鳥羽城跡)の済美寮。そこで私は深夜、付近の禅寺へたった一人で座禅を組みに行ったり、会社を休んで自室の押入れの中に寝ていたりしていた。そして何か文学とか、哲学とかに縁のあることを口走っていたが、それが技師長、桝本卯平氏の気にいったのか、話し相手にしてくれて、その信任のために随分我儘をすることができた。
庶務の仕事なんか少しもしないで、工場管理の洋書を買っては毎日それを読んでいるという勝手な勤め方を要求し、それが容れられたのである。電機部主任も、技師長に気兼ねして私の我儘を叱ることが出来なかった。」
乱歩、危機一髪
鳥羽造船所時代の落車事故にあい、九死に一生を得たエピソードが紹介されています。
(自伝より)「寮にいるころ悪友と深夜、山田市(現伊勢市)へ遊びに行ったため自動車で峠越えをしたら、崖から落車、車体が崖の途中に生えている松の木数本に支えられて横倒しのまま、ゆらゆらしていた。下は底も見えない深さである。私達は一人ずつやっとの思いで上の峠道に這い上がった。もう少しで死んでしまうところであった。」