ライト兄弟の初飛行から17年後、航空電機に進出
人類は太古より大空に憧憬を抱き、鳥のように飛びたいと願っていた。
その夢を叶えたのが米国のライト兄弟だった。エンジンを積んだ人類初の飛行機「フライヤー号」が約12秒間、120フィートの距離を滑空したのは1903年12月17日のことだった。
その17年後の1920(大正9)年、当社は日本初の「航空機用風車式発電機」を開発している。
当時の飛行機の操縦席には風防や外板も無かったので、離陸して上空に行くと低温の強風がパイロットを直撃し体温を奪った。そこで陸軍被服廠より、パイロットが着用する飛行服に施されていたニクロム線によるヒーターの電源として、翼に取り付けるプロペラ形の風車式発電機の開発を依頼されたと伝えられている。
その後わが社は、さらに近代的な「エンジン直結式発電機」へと技術を発展させ、軍用飛行機用発電機を中心に隆盛を極めることとなる。
エンジン直結式直流発電機と神風号の偉業
戦前、大きな話題になった「神風号」にも搭載された。
神風号は1937(昭和12)年に、飯沼飛行士と塚越機関士の二人により、アジア―欧州連絡記録大飛行に挑み、東京―ロンドン間の15357kmを、実飛行時間51時間19分23秒という当時としては驚異的な記録で飛行し、偉業を達成した純国産機である。
それまでの日本の飛行機の多くは、欧米から輸入した発電システムに頼っていたが、発電電圧を一定に保つ電圧調整器の接点が溶着しやすいなど、技術的な問題も多く抱えていた。
「神風号が亜欧連絡記録大飛行に成功したのは、当社のエンジン直結式直流発電機の性能が良かったこともあるが、それよりも当社の接点(リレー)技術がズバ抜けてよかったからだ」と技術リーダーは判断していた。
リレーの研究開発を行っていたのは、当時、東京 日野市にあった研究所。悪戦苦闘の末に、材料にイリジュウムを用いることで、耐熱性と長寿命実現した「電圧調整器」の開発に成功した。これを採用した機上発電システムは他社を大きくリードしていたため、神風号にも採用されたのであった。
ゼロからのスタート。欧米製品をスケッチ
終戦により、日本はGHQの指令で製造から運航に至るまで航空機に関する全活動を停止させられていた。航空機や搭載部品のすべてが破壊され、設計計算書や図面等の技術資料も、完全に廃棄せざるを得なかった。わが国が航空機関連の生産を再開できたのは、戦後7年を経た後の1952(昭和27)年から。図面一枚も無い、まったくゼロからの再出発だった。
すべては欧米の製品を忠実にスケッチすることから始めなければならなかった。詳細なスケッチから図面を起こし、試行錯誤を繰り返しながら製品を作り上げるという気の遠くなるような作業を積み重ねて製品が作られた。最初は訳も分からずスケッチしまくったので、製品に付着していたゴミまで描いてしまうこともあったという。
その後、欧米の航空部品メーカーなどとの間で技術提携が取り交わされ、徐々に製品群を増やしていくことになる。
「何とか良いモノを作ろうと、各社とも必死に技術を学んだ」。そして、「日本の航空産業の夜明けは物まねから始まった」と当社の戦後第一世代は言っている。
1959(昭和34)年、自衛隊機用発電機として、当社が生産するエンジン直結式発電機が正式採用された。米社のエンジン直結型発電機のライセンス生産であった。
現在、当社はわが国随一の航空機用発電システムメーカーとしての地位を確立しているが、最初は米国製品のスケッチから始まったのである。